田丸謙二先生
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田丸謙二先生と、浜北、森林公園内、夢の橋の上にて……(07年5月12日)


レストラン「まつぼっくり」にて。

林様:

  お元気ですか。 5月1x日(x)の12時半から浜松Mホテル(浜松
駅の近く)で亡妻の甥の結婚式がありますので出かけます。 多分3時半頃
には終わると思います。 暫くぶりにひと目お会いできればと思いますが如何
でしょうか。

  最近依頼された原稿を添付します。 貴方にとっては「マタカ」ということ 
ですが、読者が違うといえば言い訳になりますが、矢張り似たことを言うのは、頭が 
老化して来たということでしょうね。 しかし教育界がどれだけ近代化してきたので 
しょうか。 近く「新しい理科教育」の授業をある高校でやらされますが、そこの先 
生にとっては大変参考になるからと言って頼んできたのですが、「おせじ」でしょう 
か。 歳をとると「お世辞」に弱くなります。 月刊「化学」の編集者も
写真に感激した風でしたが。 私はむしろ今の若い人たちに「研究は頭でするもの」 
と言うことを強調したかったのですが。 近頃の若い連中は(教授がいけないのです 
が)研究で苦しんで考えることをしなくなってきた感じが強くします。 
イージイに 
なってきたのです。 最近も新聞にありましたが、「出世したい」と考える高校生 
が、他の国に比べて格段に少ないのと似ています。  若い連中が「シラケテ」しま 
っていると国の将来が気になります。 違いましょうか。
       
  お元気で。 
  田丸謙二



日本の将来は現在の教育が決める  

昨年本誌11月号に安部博之東北大学名誉教授の巻頭言では森嶋通夫ロンドン大学名誉教授の意見に関連し、日本の将来について深い危惧の念を述べておられた。次の12月号に会員からのメールにもあるが、森嶋教授の言として

「日本の教育には自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる」。つまりこれからの加速度的に早く変化するコンピュータの時代をリードするには日本の教育を「詰め込み教育」から、「自立して探究的に考える「智慧」を持つ」よう基本的に改革しなければいけないのである。

アメリカで小学校二年まで教育を受けて日本に帰ってきた私の孫は、日本育ちと著しく違っていた。例えば、コップに水を入れその中に自分の腕時計を入れている。「何をしているのよ!」というと。「これ防水と書いてある」。実験なのである。「マミ、救急車がこちらに来る時は高い音なのに、向うに行くときは低くなるのは何故?」、「台風の目はどうなっているの?」、「雷の電圧は高い針金を使って測れないかしら」などなど、すべて自分で考えて質問をしていた。孫の担任の先生も「自分は長年教師をしているがこんな利口な子供は見たことがない」と言っていた。しかし、日本で「思考とは無関係な、お粗末な教科書」を詰め込まれて、暗記させられ、試験に備える教育を受ける間に見る見るうちに自分で考えなくなってしまった。日本では一般の生徒たちも生来「利口な頭」を持っていても、可哀相にその才能を引き出し(educeし)、育てる本当のeducationがない。日本の教育関係者で本当にそのことを認識している人は何人いるであろうか。

要するに森嶋通夫の指摘も、立花隆の指摘する「日本のエリートは試験に強いがクリエイティビティに乏しい」というのも、また世界の大きな波に乗った「ゆとり教育」が日本ではうまく行かないのも、さらに言えば欧州でもアメリカでもそれぞれ何百人もノーベル賞を受けているのに、日本では正に桁違いに少ないのも、原因は全て共通の基盤から来ている。日本には自分で疑問を持ち、デベイトし、個性的、独創的に考える風土がない。「ものしり創り」はあってもクリエイティブな教育がないのである。教師の責任は重かつ大である。
(日本化学会・「化学と工業」誌2007年5月号掲載予定)



【田丸謙二先生より】(09年3月27日)

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先日、田丸謙二先生の自宅を訪れたとき、
先生が、「録画」の話をしてくれた。
先生の姿や声が、映像として記録されたという。
そのときの原稿が、先生より、送られてきた。

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○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ども化
学遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
 私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいておりま
してよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち上げま
して、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、化学遺産
委員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行っているわけです
が、その中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは企業で立派
な仕事をなさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという事業を一つ行っ
ております。

○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。

○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き受け
ております植村でございます。
 それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道に入
ってこられて、どのような人生を進んでこられたのか、歩んでこられたのか、それを先生にご
自由にお話ししていただけたらと思っております。
 まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというもの、先
生は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。

○田丸先生:この家で生まれました。

○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。その
ときは先生、まだ東京帝国大学ですね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあたり
までのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。

○田丸先生:これを拝見していて、一言で言えば、私のホームページに全部書いてあること
ばかりなんですけれども、私は、そこに「なぜ化学を選んだか」というのが書いてありますけれ
ども、小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、それを出て湘南中学校という、
今の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、それで、そこでは化学が一番嫌いだった
んですよ。成績も他の科目に比べて一番悪かったんです。

 私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり自分
が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困ったこと
があるんです。要するに全くの暗記物だったんです、そのころですね。だから毎週、もう「これ
暗記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられて、要するにつまらなかったわけですね。
ただ、父が言った一言を覚えているのは、「大学に行くと、化学は今のと随分違うんだよ」とい
うのは、ちょっと頭の隅に残ってはあったんですね。

 とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違うんで
すね。それこそ、なるほど、なるほどという話が来て、今までのただ暗記すればいい化学とは
全然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったことがあります。

 ちょうど大学の入試試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をもら
って、これは何かという答えを2時間で分析レポートを書く。その練習まで特別にさせてもらっ
て、それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、その時点で切り替わりまし
た。やはり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなという因子がそこで入ってきたわ
けです。

 そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったんです
けれども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の相当
部分が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もういい就
職口なんか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの給料をも
らいながら研究をする、そういう理科の学生を育てるというシステムが終戦後も残っていたん
ですね。

○インタビュアー:聞いたことがございますね。

○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、お
かげさまで人生がそこである程度決まったわけです。

○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、後
でまたお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、日本化
学会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでという、そうい
うことをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。

○田丸先生:そうですね。偉そうなことを言うのではなくて、医者の子どもが医者になりたがる
のと似たような、余り深い哲学はなくて継いだという面もなくはないと思うんです。

○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。

○田丸先生:いやいや。
 それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島先生のと
ころに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。そうしたら鮫島先
生が一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そのころ、もっとずうずう
しければ、触媒をどういうふうにすればいいんですかと聴いてもよかったかもしれないんです
けれども、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言をいただいて、「はい」と言って引き下
がってきたんです。

 ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松先生が炭素の電気伝導度、あれは
後で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後でお茶大に移られた立花先生が煙
霧質といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に北大に行か
れた人は粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっているんですよね。だ
から、誰に聴こうが、先輩が全然いないんです、触媒をおやりになったらと言われてもね。
今、何が面白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみんな先輩がいて相談に乗ってくれる
んですけれども研究室の中には誰もいない。しかも、化学科自体が、水島先生みたいに分子
構造とか、島村先生の有機なんかがあるんですが、触媒をやっている人なんか一人もいない
んです。

 しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そうする
と、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになったらと言
われても、それからの4〜5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何をしていいのか
自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、分かったことは書
いてあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大学院の入り立てですか
ら全然そういう下地がなくて、苦しい4〜5カ月に一生懸命考えて、何をしたらいいだろうと迷
いに迷って、1人で考えるものですから全然自信がないんです。

 でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あるい
はもっといいいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいんだろうかと、い
つも研究しながら、自分が自分に問いかけながら訓練されたという、そういう研究の基本を問
わず語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後では思います。

 それで、実際に迷って決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの水素添加で、ア
セチレンからエチレンへ行って、更にエタンへ行きますよね。そのときに、あのころはもう研
究費もないものですから、ただの真空ポンプで、真空にしてアセチレンと2倍の水素を入れて
やったんですけれども、そうすると、全圧をはかっていると、だんだん圧力が減るわけです
ね、水素化されますから。そうすると、あるところで、何もしないのに急に反応が早く行くんで
すよ。「これは何だろう?」とよく調べてみたら、アセチレンのある間はエチレンからエタンに
行く反応が起こらないんです。アセチレンが全部エチレンになったら、今度はエチレンの水素
添加が早く進み始まるんですね。そういう2つの反応が1つの実験の中にぽんと入っているん
ですね。

 これは、後で分かったのはそのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。たまたま
そういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度や担体を変えた
らどうなるだろうか、それから、部分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろん
な実験がどんどん後に続くわけですね。
 それで、その結果が2〜3年後にアメリカで「Catalysis」というエメットがつくった本があって、
その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白いことだったわけで、それは全く運が
よかったわけですよね。

○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。

○田丸先生:欧文誌に出しました。

○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。

○田丸先生:そうですね。
それで学位をもらえたんです。たくさん印刷発表したものですから。そのころはまだ、本当の
大学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、論文ドクター
は、大学出て7〜8年してもらうものだったんですね。

○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。

○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年でも
らえたんですよ。それで、就職の話になるんですけれど、そのころはGHQがみんなコントロー
ルしていましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくるんだよということ
になったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。いわゆる旧制大学だ
けでしたから。それからアメリカ式の教育システムになるという話になっていました。 丁度そ
の頃横浜国大から人を求めてきたからどうですかと言われたんです。 しかしそのころは横
浜国大と言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究なんか、全然そんな雰囲気のとこ
ろではなかったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部がそうでしたけれども。その上、
夜学もあって、何か雑用ばかりさせられて、こんなことしてたんじゃいけないなという感じで、
それで、アメリカのPrinceton大学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物
で、その弟子たちが各国にいる、触媒の分野では本当に泰斗というか、開拓者の一人がお
られて。

○インタビュアー:Sir Taylor。

○田丸先生:はいSir Hugh Taylor。それで、その方に自分のことを書いて直接留学できませ
んかと手紙を書いたんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお若いときにハーバーの
研究室を見に行ったら、私の父と会ったのを覚えていらしたんです。それで、ハーバーがアン
モニア合成に成功したのは、その下にLe Rossignolとか、田丸とか、すぐれた人がいたからだ
よとおっしゃるんです。

つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料が、チリ硝石を主にして取ってい
たんですが、もうチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪れるとも
っぱら前世紀の初めには言われていて、Ramsayとか、Ostwaldとか、Nernstとか、いわゆる
後でノーベル賞をもらった連中がみんな、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。
中には、空気中で放電してNOxをつくったものをやろうとしていたのもいましたけれども、窒
素と水素からアンモニアをつくるというのが、本当に行く反応なのか、窒素は不活性な気体で
すから,平衡定数がよくわからないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。

 それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数を計
ろうとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論があっ
て、ネルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは工業的にも到
底できない反応であると言ったんですね。ハーバーは、実験が間違っているんだというので
有名な議論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両方から速度を求めた
だけでなく、窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環させ、それの途中でア
ンモニアを集める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニアがたまってくる。そういうアイ
デアでやったら、これで行くよという形になって、それで初めて、1909年に、オスミウムを触媒
にして、180気圧、820K でうまく行ったんですね。

 それで、BASFがそれに乗り出して、大変な苦労をしてスケイルアップし、いい触媒を見つ
けるのに成功したわけです。それはBoschという人が大変な努力をしてやって。ハーバーは
1918年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッシュは、高圧の化学工業を初め
て成功させたというので、1931年ですか、ノーベル賞を貰っていますね。。

○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございますね。

○田丸先生:そうなんですね。

○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だというと
ころで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんですか。

○田丸先生:そうなんですね。 もう1人、Mittaschという人が、その反応に使ういい触媒がな
いかといって非常にたくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、そ
れを随分明らかにしたんですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石
がいい触媒だとわかって、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、な
ぜそうなんだろうというので、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろん
なそういういわゆる助触媒作用というものとか、もちろん被毒現象なんか、そういう触媒の性
格を非常に明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞をもらっていいくらい、本当に触媒の
本姓を初めて明らかにしたわけですね。

 テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもいいと思
われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言われて。

○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。

○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。

○インタビュアー:まだ、講和条約ができた後か。

○田丸先生:まだ珍しいころです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:それで、ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもら
って。それで、日本じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数とい
うのは大体60%、まだ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にま
だなかったスーパーマーケットで、かごに食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でも入
れられて、それが一番の感激でした。1けた以上違う生活レベルでしたから。

 それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこで、問わ
ず語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に深く教えていただきました。実
際にテイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんです。ですから、方々に行くと、おま
え、「プリンストンの田丸だね」と言って、とてもよくしていただいて。

 例えば、ソ連なんかではボレスコフという大物がいたんです。ノボシビルスクの触媒研究所
の所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で何でもいろいろ決めていた。それが、「テイラーがあ
なたのことをベストなスチューデントだと言ってたよ」といって、私がいろいろな国際会議の議
長や会長をやっていたときにも、例えば台湾を1国として数えるかどうかとかいろいろな問題
があったんですけれども、とてもボレスコフは協力的にやってくれました。そういう意味では、
テーラー先生のおかげで、随分助かったんです。

 テーラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウム
上での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反応の反
応中の触媒の表面の現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイデアを生んだ
んです。それまでは、触媒というのはいつもブラックボックスの中に入っていて、ブラックボッ
クスの入り口と出口の情報を基にして、例えば反応速度論的な情報から、反応はこういうふ
うに行くのではないかという推論だけやっていたんですね。

 ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見る
ことである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動をする
か、どんな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump 
method と言ったんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印
を持ったものにぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、それ
からこっちへ行って反応生成物に行くという、その反応経路もわかるように、なったわけで
す、

 それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイラー
先生に言ったんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系でやりますと吸着種
とその量が分かるのです。そうしたら、先生はそのときに、直ぐにその意味を分かってくださ
り、「You are very ambitious; You are very ambitious」とため息混じりに2度繰り返されまし
た。まだ世界でそれまで誰もしたことがないのに、そんなことできるのかと先ず仰いました。じ
ゃ、その計画を持っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、こうやって、こう
すると、このくらいできますよといって、「じゃ、やってごらん」というので、そこで始まったんで
す。

○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。

○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議があって、そこでテーラ
ー先生が、僕のアイデアを含めて招待講演をなさったんですけれども、触媒はこれまで反応
機構が暗中模索だったけれど、これからは新しい頁が開けるよ。こうやって反応の起こって
いる現場を調べていくと本当のことがわかるんだよと。今までは、暗中模索で推論だけしてい
たわけですね。速度論だけで。だけども、これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを
基にして、あとは反応中間体の調べ方を開拓していけば、ちょうどそのころ、赤外分光も出て
きて、それから電子分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てきたころだった
からよかったんですけれども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面がどうなって、どう
いう反応経路を経て反応が行くかというのを調べ始めて、いわゆる触媒の分野が本当のサ
イエンスになったんですね。今までだと推論だけだったのが。

○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシトーとインサイトー、それの中で吸着が
どのようになっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。

○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つまり、触
媒の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に載ってEXAFSとかいろんな新し
い手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始めて、それがだんだん
積み重なって、一昨年、ベルリンのハーバー研究所の所長だったErtlがノーベル化学賞をも
らいましたけれども。

○インタビュアー:ドイツの人。

○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い手法
で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞をもらい
ましたけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイエンスが非常
に発展していった時代で。

○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの提案
者というか、そういう感じでございますね。

○田丸先生:そう言うとちょっと言い過ぎかもしれないですが。
 それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応例
を、タングステンによるアンモニアの分解でした結果を発表したんですね。そうしたら、堀内先
生という北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれども、その先生はい
つもスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、僕の話が終わったら、すっく
と立って、本当に言葉を尽くして褒めてくださいました。これはすばらしい研究だと。触媒の研
究が、これで本当のサイエンスになるんだと。

 それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行ったら、
文部省へ行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その人に会
って、堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今、すばらしい新しい
研究をやっているから、是非幾らかでも補助してあげられないかと個人的に交渉なさって、当
時、特別に15万円もらって。15万円って少額ですけれども、そのころ私は横浜の助教授の、
まだ30歳ちょっと超えたころで、もう本当に真空ポンプ一つ買うにも苦労していたものですか
らとっても助かりましたし、そういう励ましていただいたということですね。堀内先生とは師弟
関係があったわけじゃなかったんですけれども、そうやって褒めていただいたのは、とてもあ
りがたかったなと思うんですね。

○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。立派な
ものですね。

○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださるんですよ。本当にもらったの
は何十年か後でしたけれども。

○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。

○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でしたか
ら、やること、やることみんな面白いんですね。この反応の中間体は、今まで教科書なんかに
書いてあることと全然違うことも出てくるんですね。学生たちも非常によく働いてくれたもので
すから、とても助かりました。

○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。

○田丸先生:3年近くいました。双生児が生まれましてね、まだすぐ帰れませんからというの
で、双生児を理由にして1年延ばしてもらって。双生児のおかげでよかったんですけれども。 
(その双生児が生まれた病院で一ヶ月後にアインシュタインが亡くなりました)

○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。

○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、人手が足りなくて困って大分冷たいことを言
われましたけれども、双生児で今困っているんだから、ちょっと待ってよということで。だから、
帰国してそういう意味で、学生に本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれど
も。

 私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考えな
さい」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、おまえはこれ
やりなさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確かにいい仕事ができ
るんですけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独立すると育たないんで
すね。それじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそうだったんですが、とにかく
研究は頭でするものだというフィロゾフィーですね。

 「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われたと思う
んです。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にしてみれば、頭
は使えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものですから、みんなやは
り研究は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、それをいかに発展させる
かというのを考えてくれたというのがあります。
そうやって自分で新しいアイデイアを考え付く経験はその人の一生の宝になるのです。

○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー先生か
ら受けられたという、それがきちんと身になって。

○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いのが
冗談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」と言
う人もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕がそう言うと、これは僕が、
考えに考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり足りないよ。こういうこともある
だろう、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそのくらい言える準備はしていないといけ
ないんですけれども。

○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。

○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人たち
は、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大から東
大に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、初め
いろいろなところへ就職させても、その先々でいい仕事をしてくれたものですから、それで東
大に招かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうしたということは全然なくて、そういう仕
事を通して研究室の卒業生の中から東大に8人も集まったというのが結果だと思うんです。
その他、京大、阪大、東工大などなどにもいます。そういうお弟子さんのおかげで、それこそ
弟子でもってるねというのがそれなんですけれども。

○インタビュアー:今日はちょうどそのお3人の先生方もいてくださっているので、先生は心強
く話していただけると。

○田丸先生:間違ったことを言ったら言ってください。

○インタビュアー:いやいや、それは本当です。

○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろとすると、考えるようになるも
んだなという感じがしますね。

 本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのは、外国ではもう幼稚園、小
学校からやるんですよね。さっき会った令生(レオ)という孫は、アメリカで小学校2年までや
って帰ってきたんですね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を
水の中に入れているんですよ。「おまえ、何してんのよ」と言ったら、「これ、防水って書いてあ
る」と。実験しているんですね。

 それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのはな
ぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年のくせに自分でどんどん質問
するんですよね。それで、小学校の先生が、私は長い間、先生していたけど、こんな利口な
子、見たことないと言った。それが、日本にいるともう見る見るうちに質問しなくなりましたね。
普通の子になってしまいました。

○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。

○田丸先生:日本の教育、教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせられてでやって
いると、もう本当に見る見るうちに普通の子になりました。
 やはり、本当はエデュケーション、エデュースというのは「個性を引き出す」ということです
ね。そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、
そうするのが本当の教育だなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化学と教
育』とかにもしばしばそういうことを書いていただいていますね。エデュースというね。

○田丸先生:アメリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校の校
長先生にどんな教育をするかと聞くと、アメリカではindependent thinkerと言って、自分で考え
させるという基本を心がけるのです。各人がそれぞれ異なった個性を伸ばしながら、みんな
で協力して民主主義が育つんだという哲学ですね。

 日本だと、何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、みんなと協力するという、「和を
もって貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言うと、個が育つ環境がないわ
けですね。

 やはり本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代、これからはもう時代の変化が
加速度的にどんどん速くなっていきますね。そういうときに、単なる物知りなどをつくっている
教育ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代をリードできる人
間というのは、やっぱりそういう自分で考える教育を受けさせることが必要で、これから日本
は教育を基本的に変えていかなければいけないのではないかなという感じがします。

 昔に比べると近頃研究費は随分増えましたね。みんな現役の立場で、もう堂免君のところ
なんて30人も抱えている。 研究費では、僕なんていつも科学研究費が足りないので苦しみ、
苦しみしてやってきたものですけれども。ただ、そういう十分になってきた研究費が、さっきの
ように、本当に研究というのは、自分でいつも考え、考えてやるものだという、それで新しいこ
とをやらなければいけないという基本的な考え方が薄れてイージーになってくるような感じが
するものですが。

 勝手な考え方ですけれども、やはり自分で、殊に最初の数カ月、テーマをいただいてからの
苦しみというか、悩みというか、本当に研究って何するんだろう? 何をやっても、これは何か
間違いをしているのではないか、もっといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研
究をするものだということを実際に教えていただいたという、それは、研究者として基本的な
大事なことだと思います。

○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。

○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかもしれ
ないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生で初めて研究に携わるときに、な
るほどと納得してもらって、後は自分で考えて自立した研究者になってくれればいいんですけ
れどもね。

○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟子さん
は、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられるんだと私は
思いますね。

○田丸先生:出藍の誉れで、もう今は本当に、折に触れて堂免君なんかの研究室のゼミに
出させてもらうんですけれども、よくやっていると思うのですけれど、私から余計なことを言っ
てはいけないですが、やはり基本は、「もっと考えなさい」ということです。
インタビュアー;でも、いまだに堂免先生とか川合先生にしたら、田丸先生は、ご立派だけれ
ども、まだ少し煙たいなというところがあるんでしょうか。そういうことはもう絶対ないんでしょう
かね。煙たい存在だなと、そういうことはございませんか。

○田丸先生:僕は、研究室でいつも、せっかくいい頭を持ってるんだから、もっと考えなさい、
もっぱらそれを繰り返していたという、それだけの話なんですけれども、後で考えると、やはり
いつもそう言われていると、何となく研究というのは考えてやるもんだなという、時代の流れに
合わせてやっているだけじゃいけないんだという、そういう基本が少しでもわかってくれていた
のではないかなという気持ちはしますね。

 私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をなしてくれています
から、そこが違うのではないかという気がいたします。

○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制で入っ
てきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入ったりして、余
り考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文として名前が出
たりとか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよね。

○田丸先生:そうなんです。やはり人手として使われて。イージーですから、それでdegreeをも
らえてこう行くということになっていると、やはり研究というのは苦しいものだ、つらいものだと
いうことを一番基本に経験させられたというのは、私は非常にありがたかったと思うんです。
でも、本当に何も知らなくて、研究はどうあるべきかも、一生懸命その初めの4〜5カ月という
のは、鮫島先生から言われてから、本当に苦しかったんですけれども、それで古い文献をも
とにして考えるというのが。でも、たまたまそれが結果的に運良く、反応が面白い反応だった
ものですからよかったのですけれども。あれが当たらなかったらどうなりましたかね。

 ですけれども、やっぱりいろいろ考えてやると、何かそういう、ほかからも評価されるような
結果が出てくると、全く個人的にやったわけですよね。あれは、そういう意味では鮫島先生の
一つの天才教育というのかな、それなりに自分で考えなさいという考えさせ方で。

○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったでしょう
ね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなところですから、
先生もそういう指導者がいいと思われたのかもしれないですね。

○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう独創性とは、やはり違うんですね。出
題問題に全て答えられる、そういう秀才だからいい研究者というわけではないんですね。その
辺の、習ったことを理解するだけではなくて、自分で新しいことを考える努力をするという、人
によって才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結果だと思うんで
す。出藍の誉れというのはみんな。

○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、よく
考えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、各大学で立派
な教授となり、東京大学に8人もいらっしゃる、あるいは京都や大坂、東工大にもいらっしゃ
るし、北大にもいらっしゃったと言っていただきましたが、そういう人たちが、また次の世代を
先生の思想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたいことですね。うれしいこと
ですね。

○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なくとも、
孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思うので、さっ
き言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化する時代にリードでき
るには、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピューターができる物知りだけで
は、これからはますますいけなくなるのではないかと。僕も、先が短いですけれども、とにかく
そういう、みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、そういう個性を育てる教育がこれから
ますます必要になるのではないかと。

○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、古巣へ
戻るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこでまた20
年ぐらいいらっしゃったのでしょうか。

○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年いまし
た。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験をしたし、そ
れなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室に毎年4〜5人来
ましたか、そのうちから3人、東大教授が出ました。学生の質もよかったんですけれども、そ
のころから人が育ち始めて。夜学なんかは随分つらかったけれども、学生がよくできて、そう
いう意味では、本当に私は幸せだったと思います。

○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアドミニ
ストレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。

○田丸先生:それは、ちょっと話があれですけれども、プリンストンに小平先生という有名な
数学の先生がいらして。

○インタビュアー:小平先生、数学者。

○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみた
いだったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、しょっちゅう
行っていて、僕たちにはとてもよく話してくださって、小平式の考え方がとても参考になりまし
た。

 小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、理学
部の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対嫌
だ、そんなために日本に帰ってきたのではないから絶対嫌だと言われて。だけれども、教授
会で一旦選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいなくなりますでし
ょう。だから、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうしたら、化学では田丸さ
んを知っていると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れられて、学生とごたごた
させられて。あのころ、いろいろ大変だったでしょう。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは専門ばかだと言って。小平先生が、「先生は
専門ばかと言われるけど、学生はただのばかだね」と(笑)。小平語録という、そういう面白い
話がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーションに引っ張り込まれたわけ
です。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。

○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、化学
会賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただきました
ね。いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、今、山口東京
理科大という、最初からそうだったんでしたか。

○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださっ
て、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大があっ
たんですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まず人集めが大切
だからといって。でも、随分いい人が来てくれました。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だ
からあれだけ集めたんですねといって、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てく
れたし、東大から戸嶋直樹さんとか、東工大から山本経二さんとか、いろいろないい人が随
分来てくれて。ただ、残念ながら、今はもうほとんど定年になって辞めていきすけれども。だ
から今、大分苦しい立場らしいですけれども。

 そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の中
で、橘高先生という偉い理事長さんが、理科大の教育を高度化する委員会をつくって、その
委員長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、先生の
講義に学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、そのときはもう、
「とんでもない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だったんです。それで、
その新しい考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一部の人は知っていま
すけれども、要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこにつくって、例えば人事を
するときは、自分たちだけではなくて、その分野の専門家も外側から入れて決めるべきだと
か、カリキュラム自体も、例えば数学の先生が書いてくるものをそのまま受け取るのではなく
て、やはり客観的な意見を求めて、全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだとか、今
まで習慣的にやってきた大学のあり方をすっかり変えて、山口で始めました。今どうなってい
るか知りませんけれども。

○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろうとい
うか、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変えたらどうか
ということを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはどんなものだったん
でしょうか。

○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入学試験
を面接に加えて教科書持参でやったんです。

○インタビュアー:教科書持参でですか。なるほど。

○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、
「これ覚えているか?」の問題はできないんですよね。
 ですから、例えば1つは、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの
割合であるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を聞
くわけですね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考える子か、たとえ結論が間違っ
ていても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によくわかります。

 だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんですけれ
ども、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学校の
理科を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう授業ばかりですよね。またそれが入試対
策にはいい教え方なんです。 それで、大学へ来ても、そういう延長ですから、生徒から先生
に質問がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、先生の部屋に並んで待っていま
すよ、ディスカッションするのに。日本じゃ、ただ受け取るだけの話で、それで大学院へ来る
わけですね。それでクリエーティブなことをしろと言ったって自立していないからできない。つ
いイージーな教育になってしまうので。

 本当に、さっきの私が経験したようなつらい思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」
だけでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるものだ
と。それが人生全体に、やはり考える人間をつくらなければいけないんだということで、入試
を変えないといけないですね。

○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、今
までいた教官なわけですね。そうするとなかなか。

○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、つくれません」と。
確かに難しいんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人はきちんと考えますから。だ
から、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の試験をするようなことではなくて、高等学
校のときに習って覚えている話がたくさんありますけれども、例えばアボガドロの法則といっ
たようなものを、気体の体積、圧力で同じ数の粒があるとか、そういうものを習いますよね。
それから、食塩はイオン結晶だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応だとか教わりますよ
ね。だから、そういう3つのことをみんなよく知っているんだけれども、では、それを実験的に
証明する仕方を述べなさいと言うわけです。そうすると、よくわかるんですよね。よく知ってい
ることを、どうしてそうなのか実験的に証明しろと言われると、本当にその人間の考える力が
わかるんですね。

 そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、先
生がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやって育ってく
る人間ではなくて、「先生そう言うけど、なぜ?」とか、さっきの小学校2年の孫が聴いたのと
同じことなんです。「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くときは低いのはな
ぜ?」とか、そうやって、それぞれの事柄が、バックがきちんとあるのを、みんな、「それはそ
ういうことになっているんだよ」とただ教科書を覚えさせられてもだめなんですよね。

○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の入試者に対してそれを
されたわけですか、それともある学科だけ。

○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった大学ですから、小さい大
学で。

○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でございまし
たか。

○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。あ
とよくわからないんですけれども、1つは、初めから受験生の質の問題もありますからわかり
ませんが、日本全体の入学試験自体が、アメリカ辺でも、大学によってはクリエーティビティ
ーとリーダーシップを見るんだとか言いますね。そうやって資料や面接を通してきちんと見る
んですね。ケンブリッジでもそうです。教科書を丸暗記しているような子は採らない。やはり自
分で考えられる将来のリーダーを選ぶんですね。

 本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶ入学試験を、面接に時間がかか
るかもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、そういう自分で考えられる
人間を育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大でもみんなそういうことにいたします
と、高等学校でもそういう準備をいたしますから、だんだん自分で考える人間が育ってくるわ
けですね。そういうのが私の意見です。

○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省でし
ょうか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制というか抵抗は
別になかったわけですね。

○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくれたからよかったんです。でも、
教科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余り受験準備できなかったけれども、そう
いう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとかね。しかし本当に問
題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエーティビティーの問題なんですよ
ね。

○インタビュアー:そんな感じはしますね。

○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事ときも、そういうことができる人間を大学
として大事にする、そういうことをしないと、ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてある
のを説明するだけで、「わかったか、おい」とかというだけの話ですから自分で考えることが育
たないですね。

○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生のお父
様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上げている
のですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うんですが、お父
様は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:第一次世界大戦の前。

○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カールス
ルーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリンの研究
所の所長に選ばれたときに、その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。
その研究所が世界一の研究所で、アインシュタインやラウエなどもいたし、日本人も随分そこ
に留学に行っています。

○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。

○田丸先生:合計8年ぐらいだったんです。だから、ベルリンにいた日本の大使が父に、「日
本からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、それだけ一
応重要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まると、ドイツは日本の敵ですからおれ
なくなって。

○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。

○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、ハーバードにもい
ましたけれども、それで理研をつくろうじゃないかと、そこいらから……。

○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか

○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初めて
本当の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。研究所のモ
デルをつくりたいと。それで多分、費用もかかって大分言われたらしいのですが、、大震災で
他の建物は大分つぶれてしまったのにその建物はガラス1枚割れなかったというので大変に
評価されたらしいんです。

○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:ああ、そうなんですか。

○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。
 父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和1桁の時は、ご存じの
ように、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、お金が削られ
ることはあっても、お金は来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しくて、これで
はとてもいけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって学術振興会を
つくる運動をしました。体が悪かったんですけれども、結局、一番最後は、手回ししたのでしょ
うが、昭和天皇が、私の身の回りのことは幾ら倹約してもいいから、学術振興に金を出してく
れとおっしゃってくださったんですね。それで、昭和7年かにできて、それで、それから急に論
文の数が日本で増えた。論文だけじゃなくて、それで人材が育ったんですね。その人材が次
の代を育てて日本が発展していった、それが父の一番の苦労でした。

○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。

○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、本
当に田丸のおかげでできたとい。

○インタビュアー:そうですか、立派なことをしていたんですね。

○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研の建物をつくること自
体も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。

 ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と言った
そうなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成なんかにでき
るかどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テイラー先生も、田
丸の息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質を受け継いでよくや
ってくれた」と。しかも、いいアイデアを出したものですから、「彼はベストなスチューデントだ」
という話にしてくださったんですけれども。

○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生と一緒に働かれたんで
すね。

○田丸先生:いおえ、僕はそれほど、死ぬほどしなかったけれども。

○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、レイジーがいたら、先
生を見たらもう脅威だったのではないですか。

○田丸先生:そうですね。だけど、長い目で見て、やはり固体触媒の分野があれでサイエン
スになったという感じですね。それまでは全然、外側からの速度論だけで、こうなっているの
ではないか、こういうことが起こっているのではないか、推測ばかりでしたから。

○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう感じです
ね。

○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、その50年間が、そういう意味で触媒の分
野が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、いろいろな
機械もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をもらっています。
そういう分野が今、日本でそんなにないんですよ。大学院生をこれできちんと育てないととい
う心配もありますね。

○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福井謙一
先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつも考えてお
られて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつも言われてい
ましたね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃるのと、やはりそ
うなんですね。

○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Letterで
そんなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツエリウスとい
うのは「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデーが出てきて、そしてハーバーが出て
いるんですけれども、その中にこういう、この写真を勝手に使うんですよ。僕の許しを得ない
で出ていて。

○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出された
んですか。

○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。

○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。

○田丸先生:もう一枚、あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんですが、人の写真を、
これは1984年にベルリンで大きな触媒の学会があったときに、ハーバーのエキジビションの
コーナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成したときの装置なんかを出し
て。それで、僕のところに、何かハーバーに関係したものを送ってくれないかというので、それ
までほとんど出さなかったんですけれども、その写真を送ったんですよ。そうしたら、ケンブリ
ッジの教授のジョン・トーマスさんが、僕に是非このコピーをくれと言って、それで上げたのを
オフィスに飾って、日本人が来ると、これが謙二なんだよと、赤ん坊が。

○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。

○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。

○インタビュアー:だから2つ載っていると、そういう意味ですね。現在の私とで二枚。

○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけられてい
たということかもしれないんですけれども。

○インタビュアー:すばらしいな。

○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ。

○インタビュアー:アインシュタインですね。

○田丸先生:田丸さんあてですよ。

○インタビュアー:1949年、すごいですね。

○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本もめ
ちゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆ができて、だ
から、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つというわけですね。

○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。

○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究所
で、知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなでいいんだろうかという、若
気の過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。

 しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しかないと
いうんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分たっています
けれども、あれから見ると、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。同
じお金を使うし、パリみたいに、前は英語なんか全然しゃべらなかった国が、きちんと英語も
どうにか通じるようになるし、いわゆる連邦という感じがしまでしょう。

 それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。だんだん世界
中そういう連邦になるのではないかと思って。その方向に。要するにワンウェイしかないと。ア
インシュタインが自分のサインで田丸さんあてにくれたというのが。

○インタビュアー:湯川先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュタインから
の手紙を読む)……すごいな。

○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考えら
れない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょう。だけれ
ども、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていっているというので…
…。

○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:これはすごいですね。

○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比すると、
本当にそうだなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられましたけ
れどもね。○田丸先生:そうですね。

○インタビュアー:早くからそういうふうにね。

○田丸先生:実際に、田丸謙二さんあてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言
葉で。それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときにアイ
ンシュタインのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキングで、それ
で、質問が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」と。(笑)

○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。

○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。

○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、いろ
いろ先生からお話を伺って、今、先生もう満85歳におなりですし、大体、若者に対しての言葉
というものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの少し、何か先生、
もうちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少しだけでも何かありました
ら。

○田丸先生:やはり教育界全体が、例えば17年ぐらい前かな、アメリカでは、アカデミーを中
心にして、これからの教育は、コンピューターの時代になるし、大幅に変えなければいけない
というので、それまでは理科でも、クジラの種類を覚えさせたり、そういう理科の時間だった。
それではいけないというので、そんなのは全部やめて、science inquiryという、科学の考え方
ですね。さっきのように、「なぜこうなのか?」という理科に変えるんだといって猛烈な努力をし
たんです。もう全国で150回ぐらい講習会を開いて、それから、教育関係学会とも協力し、最
後は4万冊刷ってみんなに配って意見を求めて、理科を基本的に変えるという時代でした。

 ちょうどそのころですよ、日本の化学会で、教育の関係者が集まって、文部省の教科書検
定に、高等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考え
る一番基本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、そ
れから、沸点上昇でも、凝固点降下でも、みんな平衡をもとにして考え方が出てくるわけです
ね。それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りましたからいいのですけ
れど。 日米の教育関係者の智的レベルの差はこれほど大きいのです。

 大事なことは、そういう教育関係者というか、リーダーたちが、本当のことをきちんとわかっ
ていないということですね。それで、そういう人たちが、リーダーが、文部省も有名人を集めて
平衡をなくしたわけです。そのくらいのレベルなんですね。それで、アメリカの方ではそういう
画期的な努力をして、新しいものをつくって、それがヨーロッパに広まって、かえってそれが日
本に戻ってきて、ゆとり教育を始めようと言い出すわけです。ゆとり教育というのは、覚えるこ
とを少なくさせるための教育ではなくて、考える教育をつくるんだというのが基本なんですけれ
ども、日本にそういう基盤がないんですよね。

○インタビュアー:何か妙になってしまったんですね、あれも。

○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当の話
は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしまうという
ことです。

 それが、大事なことは、教育関係者がわかっていないということですね。それで、小学生に
independent thinkerに教育をするんだと思っている人なんて、日本にいないでしょう! 小学
生は何も知らないで入ってくるから教えるんだという、教え込むことだけでやっていますね。入
学試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっきのケンブリッジでもそうだけれども、将来
のリーダーを育てるという教育が、日本には、差別というのはいかんという形ですが、差別と
いう意味ではなくて、区別しながら才能を伸ばす教育を、各人が自分の個性を育てるように
自分で考える、要するに自分で育てる教育に切り替えないととても、これは先生からそうだと
思う。やはり生徒は先生の背を見て育ちますから、先生がそうやって考える教育をすると、生
徒も考えなければいけないんだなということがわかってくると思うんです。

○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかります
ね。

○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいんだけれども、どうも時代はどんどん
加速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。

○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。

○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書きまし
たが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解して出す、そ
ういう能力は非常に高い者が多いけれども、要するにクリエーティブな人は必ずしも多くな
い。クリエーティビティーで試験をしていませんから。それで、それが大学を出て、いわゆるリ
ーダーになるわけですね。それが日本の国を変えていくわけです。ですから、やはり基本は
考えるものだという、それで、そういう人材のつくり方をきちんとしていかないといけないので
はないかと思うんですけどね。

○インタビュアー:それに対して、京都がすべてそういうことを考える、ちょっとレベルは低い
けれども、考えるやつがたくさんいるんだぞというところぐらい、安定的にきちんとこれがしっ
かりすればいいんですが、私を見てもわかりますように、大したものがなかなか出ていないと
いうのもあるんですね。

○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を
開いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり先
生の再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。

○インタビュアー:先生ありがとうございます。
 最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせてい
ただいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのローンテニ
スクラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、テニスなんかは
全然していらっしゃらない。

○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけどね。会長も、それこそ早稲田のテニス
部の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、六百何十人かのクラブな
んです。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお寺があって、それを鎌
倉市はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコートがその庭になってつぶれる
んですよね。それで、鎌倉市は世界史跡都市とかになりたいというので一生懸命で、そうした
いと言っていて、2年のうちにそういうふうにするという時代があったんです。

 ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に一寸で
も顔のきく人がいないかと。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、させられて。そう
したら、ちょうど東大の総長特別補佐(副学長)をやらせてもらったときに、文部省から来てい
た女の東大の法学部を出た人が課長に来ていたんです。それが文化庁へ戻って、文化庁の
その問題の隣の課長になっていた。それでもうその人を頼みにするしかないというので行っ
たら、とてもよくしてくれて、その係の人を集めて僕の説明を聞いてくれ、それで予算のときで
も押さえてくれて、それで一番の危ないときは乗り越えまして、とてもありがたかったんです。

 天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、時々いらっしゃるんです
よ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言ったら絶対にだめなんですけれども、天皇陛下
に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていただけますか」と直接お願いしたんです。そうし
たらね、まんざらでもないお言葉があったんですよ。それで、「天皇陛下がいいっておっしゃっ
たよ」とみんなに言いふらして。そうしたら、本当にそういう手続を一応して、そうなったんで
す。

 天皇もテニスコートにいらっしゃると、とっても気楽で、お好きなんですよね。それで次のとき
にいらしたときに、お帰りになるときに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてあ
りがとうございました」とお礼をおっしゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どうい
たしまして」と言うんだけど、こういうとき何て言っていいかわからんと思って、もうまごまごして
しまったんですけれども。

○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を拝
見しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。

○田丸先生:でも、お話をすると、とてもいい方ですよ。皇后陛下もお利口だし、本当によくで
きた方です。

○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただいて。

○田丸先生:そうなんですよね。前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに僕、は、お
見舞い状を出そうやと言って見舞い状を出したんです。またお元気になられてテニスにいらっ
しゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛下がとてもお喜びになり
ましたと。本当にごらんになったのかなと思って。だって、何万人かが祈念しに行ったときでし
ょう。そうしたら、その退院されて初めての公務として化学会にいらしたでしょう。

○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。

○田丸先生:それで、そのご講演の後でレセプションがあったときに、陛下が僕の顔を見て、
いらして、「あのお見舞い状ありがとうございました」ってお礼を言われたんですよ。天皇陛下
がそこまで細かいことを覚えていらっしゃるとは夢にも思わなかったんですけれども、僕の顔
を見て、その節はありがとうございましたとおっしゃいました。

○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。

○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。

○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が来ていらして。

○田丸先生:昨年11月に田丸研の出身者の集まりをしたんですけれど、皆来ますと限られた
時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。そうしたら、もっと先生と親しくしゃ
べりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」というのをつくって、早速12月にやろうという
ので、もう勝手に企画して、鎌倉駅で集まって食べるもの飲むものなど全部買い集めて、しか
も集まる人数はなるたけ10人以下にしたいというので、私の家で僕を囲んでしゃべるというん
です。僕は、ただ皆さんが楽しくしゃべっているのを聴いて楽しむだけの役なんです。 今日
はその日に当たっているのです。場合によってはわざわざ大阪からその為に来る人もいま
す。

 研究室として、しょっちゅうここの庭で集まりなどをしまして、みんな仲がいいものだから、一
緒に来た外人なんかも驚くんですね。アメリカなんかは、極端に言うと、卒業生はもうライバ
ルになるわけですね。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それは、
とても印象的らしいですね。日本的なところですけれども。

○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの教育
を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。

○田丸先生:そうですね。 化学学会賞が今度3月末かな、川合真紀さんがもらいますから。
 それから、今日の午後来るのには、触媒学会賞を今度もらう内藤君夫妻という人が来ま
す。皆さん、弟子の方がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今まで4人だけれども、川合真紀
さんなんかでも多分もらうのではないかと思うんだけど。

○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生きして
いただいて。

○田丸先生:それだけが楽しみなんです。
○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースですね。
 今日は先生、本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司