●出世城
浜松市の中心部、今の市役所のちょうど裏あたりに、浜松城がある。別名、「出世城」ともいう。徳川家康の居城となったことのほか、徳川譜代、歴代の大名たちが城主となったからである。この城から、幕府老中が、6人も、生まれている。
それで「出世城」という。
が、徳川家康にとっては、よい思い出ばかりではない。浜松城は、徳川家康が、武田信玄に、三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で大敗し、命、かながら逃げ帰った城としても知られている。そのとき徳川家康は、恐怖のあまりか、馬の上で、クソをもらしたという説も残っている。
徳川家康と武田信玄、そして織田信長。結果的には、織田信長が天下を取り、つづいて徳川家康が天下を取っている。その過程で、いつも一つの謎として残るのが、実は、この三方ヶ原の合戦である。
徳川家康は、武田信玄が陣を取る見方ヶ原へ、わざわざ駒を進め、そして手痛い敗北を帰す。そのときまでに武田信玄は、あたかも外堀を埋めるかのように、周辺の天方城(あまがたじょう)、飯田城(いいだじょう)、それにすぐ近くの二俣城(ふたまたじょう)を落としている。
武田信玄にしてみれば、用意周到の準備を重ねた上での、浜松城の攻略である。が、武田信玄は、一気に浜松城を攻めることなく、どこか遠回りにして、つまり浜松城を迂回(うかい)する形で、浜松市の北西部の三方ヶ原に陣を構えた。
そこへ徳川家康の軍勢が、つっこんだ!
これでは武田信玄のワナに自らはまったようなもの。事実、徳川家康の軍勢、約8000名のうち、1割の約800人が、その合戦で、命を落としている。当時の合戦としては、大敗北と考えてよい。
この徳川家康の行為に対して、いろいろな説がある。血気盛んな徳川家康が、若気のいたりでつっこんだという説。もう一つは、織田信長への気兼ねをしたという説。もし武田信玄の軍を、織田信長の住む尾張へみすみす通してしまったら、メンツ丸つぶれ。徳川家康は、それを恐れたというのが、それ。
まあ、結果として、ずっと先の話になるが、どうであるにせよ、徳川家康は、やがて天下を自分の手中に収める。つまり、メデタシ、メデタシということになる。
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