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【自然教育について】
●台風4号
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明日になると、もっとはっきりする
と思うが、今回の台風4号は、
九州地方に、かなりの被害を
もたらしたようだ。
河川の氾濫、土砂崩れ、など。
しかし以前は、河川の氾濫に
しても、その氾濫を防ぐために
はどうすればよいかということが
治水事業の柱になっていた。
が、今は、ちがう。「河川は
氾濫するもの」という前提で、
治水事業が考えられるように
なった。
わかりやすく言えば、それほど
被害がないと考えられるところで、
河川をわざと氾濫させることによって、
人口密集地や、住宅地への被害を
最小限におさえようという方法で
ある。
今までの治水方法では、あまりに
お金がかかりすぎた。それでそういう
考え方に変わってきたらしい。
国土交通省が導入しようとしている、
「洪水氾濫域減災対策制度」(仮称)
というのが、それである。
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私の息子夫婦は、アメリカのアーカンソー州という州に住んでいる。テキサス州の上、アメリカ
南部の州である。
そのアーカンソー州の東側を、たてに、あのミズーリー川が流れている。長大というよりも、広
大な川である。
この川が、数年おきに、氾濫する。ああいう国だから、ふつうの氾濫ではない。幅何10キロ
(あるいはそれ以上)に渡って、氾濫する。
しかし治水事業というか、堤防づくりは、ほとんどしていない。それについて、たまたま私がア
メリカにいたとき、こんな住民投票の結果が、テレビで報道されていた。
住民たちは、堤防づくりに反対しているというのだ。理由は、「お金がかかる」「そのために税
金がふえるのはいや」「そのかわり、氾濫で被害を受けたばあいには、補償金を支給してくれ ればいい」と。
何とも合理的な考え方ではないか。またこんな意見もあった。「人工の堤防をつくれば、自然
の景観を台無しにする」と。
日本でも、河川の氾濫について、このところものの考え方が、少しずつだが、変わってきた。
以前はというと、河川の氾濫にしても、その氾濫を防ぐためにはどうすればよいかということが 治水事業の柱になっていた。
が、今は、ちがう。「河川は氾濫するもの」という前提で、治水事業が考えられるようになった。
わかりやすく言えば、それほど被害がないと考えられるところで、河川をわざと氾濫させること
によって、人口密集地や、住宅地への被害を最小限におさえようという方法である。
今までの治水方法では、あまりにお金がかかりすぎた。それでそういう考え方に変わってきた
らしい。
といっても、わざと氾濫させてそのままというわけではない。道路や線路を高くもりあげて、堤
防のかわりにするということらしい。これを行政用語で、「控え堤」とか、「二番堤」とかいう。氾 濫した水を、こうした控え堤や二番堤をうまくつかって、別の場所に誘導する。最終的には、海 へ流す。
まさに知恵比べということになるが、その効あってか、これほどまでに大きな台風がきても、
日本では、目だった被害はあまり起きない。少なくとも、どこかのあの国とはちがう。あの国で は、少し長雨がつづいただけで、壊滅的な被害を受ける。
核兵器ばかり作っていないで、少しは、別のところにも頭を使ったらよい。……というのは、お
まけ。私の意見のおまけ。
●自然教育
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ミズーリー川の話を書いたので、
ついでに自然教育について。
題して、「はやし浩司の自然教育」。
参考までに!
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【自然教育について】
「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どう
してこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知ら ずなのだろう」と思ってしまう。
外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人と180度違うのがわかる。日本以外のほとん
どの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。
彼らはあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自然は、「脅威」
であり、「敵」なのだ。このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と言っ て笑われる。
日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ ない。そこで発想を変える。
オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。
私がある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科
目ですか」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。このキャンピングと いう科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(すべ)を学ぶ。ここでも、 「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。
もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。
だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。自分たちでさんざん
自然を破壊しておきながら、他人に向かって、「大切にしましょう」は、ない。破壊しないまでも、 破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。
こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜
園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そ ういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。
そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事など
しないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、 「何が、自然を守る」だ!
自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の 視点から考えるべきことなのである。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●自然教育について(2)
世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層 ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみるとよい。40数階の展望台から見ると、眼下に 浜松市が一望できる。
が、皮肉なことに、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市
が美しい町だと思う人は、まずいない。
このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装 し、ブロックで、カベを塗り固めている。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教 育だ」ということになる。
私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。
構造的な問題というのは、市の土木予算が、20〜30%(浜松市の土木建設費)もあるという
こと。日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでい る誤解をいう。
たとえばアメリカのミーズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流し
ている。2000年※の夏にも大洪水を起こした。
しかし当の住人たちは、護岸工事に反対している。理由の第一は、「自然の景観を破壊する」
である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけるよりも、そのつど被害を受けた家に補償 したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。今、日本人に求められているのは、そういう 発想である。
もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。少 なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手とい うもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●自然教育について(3)
5月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季節。
そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。
浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で40分足らずのところだが、この2つの生活は まるで違う。
市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、当たり前。大
雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ちるたび に停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も浄化槽 の清掃も、自分でする。
こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生
活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベ ンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜び さえ覚える。
で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。
いろいろあるが、ともかくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。
女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にも どりつつあるように思う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚 をとった。そういう自分に、だ。
で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。 数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。
……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ゆがんだ自然観
もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。
「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。
この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を
見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育 が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740 年に始まった産業革命の原動力となっていった。
日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社 会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。
その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼
玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。
自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない という事実の再認識である。
さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求め
てからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の 高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そ ういう人間の身勝手さは、もう許されない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自然
教育 自然論 子供の自然教育)
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